パブリックプレッシャー/公的抑圧
02/21/80発売
国内売上348,904枚(発売~1997年)
オリコン最高1位



Rydeen
作曲:高橋幸宏 編曲:YMO
出だしの教授のボコーダー声は「グッドイブニング、ロンドン」です。この日はロンドン地方は停電があったらしく開演2時間前まで松武氏は懐中電灯を持って機材のセッティングをしてたらしです。ロンドン・ベニュー公演(79/10/16)

Solid State Survivor
作詞:クリス・モスデル 作曲:高橋幸宏 編曲:YMO
細野氏曰く、ライブ終了後、会場を出たら女の子が走ってきていきなりチューされたそうです。勇気ある少女、何故ハリーを選んだ?(爆)ロンドン・ベニュー公演(79/10/16)

Tong Poo
作曲:坂本龍一 編曲:YMO
ロンドン・ベニュー追加公演の演奏です。やはり聴きどころは間奏での教授のアレンジか? スタジオ編集作品なので、このアルバムでしか聴けないというところがミソです。ロンドン・ベニュー公演(79/10/24)

The End of Asia
作曲:坂本龍一 編曲:YMO
YMOとしての「ジエンドオブエイジア」は「増殖」でショートバージョンが唯一入っているだけなので、こっちの方が完全に聴けるのでよいです。後半の教授によるスタジオでのアレンジは圧巻です。ロンドン・ベニュー公演(79/10/24)

Cosmic Surfin'
作曲:細野晴臣 編曲:YMO
有名な前座アンコール(79年8月2日~4日チューブス公演)をやってのけたグリークシアターでの演奏です。スタジオ編集されていないオリジナル演奏は後に発売されたCD「ライブアットグリークシアター」で一部始終聴けます。流石の細野氏もこのライブの直前には胃薬を飲むほど緊張してたらしい。冒頭のナレーションはリッキー・ファー氏。この演奏ではシーケンサー(MC-8)は使っていないらしいです。因みにYMOのキューシステムが完成したのは79年6月の六本木Beeでのライブから。それまではユキヒロ氏だけがドンカマに合わせていた。教授は基本的にクリック音だけで他は全てオフだったそう。 教授が初期のYMOライブで曲を間違えて弾き始めてもしばらく気が付かずにいたことが度々あったのはそれが理由だったのかも?(笑)参考までにMC-8の初ステージ演奏はなんとYMOではなく、1977年12月31日に西武劇場で行われた「ニッポン放送行く年来る年」で松武氏と矢野顕子さんがMC-8とMoogIII-Cを同期させて「第九合唱」を演奏したのが最初らしい。レコーディングに関してもMC-8を最初に使ったのは教授の「千のナイフ」よりも一足先に矢野顕子さんが「トキメキ」で使用しているらしい。意外なところでYMOより先を行くアッコさん。(笑) ロサンゼルス・グリークシアター公演(79/8/4)

Daytripper
作詞・作曲:ポール・マッカートニー 編曲:YMO
この演奏の翌朝、米ABCニュースで「YMOは日本のビートルズだ!」と報道された。そのまんまぢゃん。もっと言い方を考えろよな。(笑) ニューヨーク・ボトムライン公演(79/11/16)

Radio Junk
作詞:クリス・モスデル 作曲:高橋幸宏 編曲:YMO
何にもしたくない何も考えたくもない男の心境を歌ったボーカル曲としてヒキユロ氏がシナロケに提供した曲で、シナロケのアルバム「真空パック」に収録されてます。YMOバージョンはスタジオ収録はされておらす、このアルバムでしか聴けない。ラジオジャンクとはラジオで流れているやすっぽろいポップミュージックのこと。教授曰く、NYのステージではファンから素晴らしいと言われたものの、英語の歌詞なのに何て歌っているの?と言われてショックを受けたらしい。ま、ユキヒロ氏の英語の歌唱力がどーのこーのと言うより、イミフな歌詞でお馴染みのクリス・モスデルが作詞の曲ですから、それほどショックを受けるほどでもないと思いますが。。。(笑)ニューヨーク・ボトムライン公演(79/11/16)

La Femme Chinoise
作詞:クリス・モスデル 作曲:高橋幸宏 編曲:YMO
この曲はフランス語でのモノローグによる影響か、やはりフランスでヒットしたそうです。ギター部カットなはずなのにちょっと聴こえちゃってますよぉ~。(笑)ニューヨーク・ボトムライン公演(79/11/16)

Back in Tokio
編曲:YMO
曲というよりMCです。通称、凱旋公演と言われている中野サンプラザ公演で唯一、公に発表されている音源という意味で貴重です。声はYMOメンバーではなく1回目ワールドツアー時のツアーマネージャーだった生田郎氏(←吉田美奈子さんの夫でもあり、教授のマネージャーでもあったが、1988年にメキシコで自動車事故により死去。)だそうです。最後にビハインドザマスクのイントロのシーケンスが数秒だけ流れてフェードアウトするのでスッキリしない。もっと聴かせろぉ~。(笑)東京・中野サンプラザ公演(79/12/19)



★アルバム解説★
日本では全く無名のYMOが突然ヒットしたのはこのアルバムが売れたためでした。このアルバムは1979年の第1回ワールドツアーの演奏を収録したもので、「外国でYMOというバンドがウケた」という報道が日本でされた直後に発売され、あっという間にYMO初のオリコン1位に輝きます。それにつれて他のアルバムもバカ売れしていくという現象がおきました。ツアーから帰った直後に行われた凱旋公演での「バックイントキオ」を聴いてもその熱狂ぶりが伺えます。その反面、国内の予想外のYMOブームによって国内活動を重視せざるおえなくなったことにより、その後YMOが海外進出に消極的になったのではないかという可能性は否定できない。ところで、このアルバムには細工がしてありまして、ゲストメンバーであった渡辺香津美氏の所属レコード会社による契約問題上、ギター部分をカットしなければならなくなり、教授がスタジオでオーバーダビングしてあるのです。アルバムには「遺憾ながら日本コロンビア株式会社の意向によりキターチャンネルを一切カット致しました事を御諒承下さい」という日本コロンビアに対するアルファの皮肉を込めたメッセージが書かれた。但し、スタジオダビングによりこのアルバムは半バーチャルライブ版という当時としては珍しいアルバムとなり、逆にテクノポップ度を増すことになり不幸中の幸いとなるのです。(90年代になってギター入りの純正ライブアルバム「フェイカーホーリック」が発売されました。)尚、教授と顔見知りであった渡辺香津美氏は格闘技セッションやKylinなどの活動を通じてYMOのゲストメンバーに参加することになったようですが、以前から細野氏のファンだったみたいです。ライブではMC-8のデータロード時間や音数(最大5300音)の関係でソロ演奏を長めにとるアレンジがされましたが、海外ではYMOの演奏より香津美氏のギターソロに注目が集まってしまう誤算?があったことや、上記のような契約上のトラブル再発を避けるために80年のワールドツアーではニューウェーヴ系の大村憲司氏(1998年11月18日肝硬変で死去)が起用された。尚、このアルバムでは香津美氏のクレジットはMr. Kilynとなっている。一般的に重厚な和音を特徴とするYMOサウンドですが、ライブではバッサリとカットしてシンプルな演奏をするため、YMOのライブ曲は新作と言えるほど違いがあるとよく言われます。ベスト集としても機能するこのアルバムはYMOブームの起爆剤となったわけです。80年の完全テクノポップ化したスクエアなサウンドのライブに対して、79年ライブはまだ格闘技セッションっぽい勢いがあります。ジャケの画像は鋤田正義氏がYMO3人を楽屋で撮影した写真を東海大学の画像情報処理センターにまで持って行きコンピューターで加工したもの。今ではスマホでもできるレベルの画像処理ですが。。。(笑) アルバム名に使われたフォントはファッション誌「ヴォーグ」と同じ"ファルマン・ディド"という書体だとか。ヒューマンリーグもこのフォントを使ってたらしい。当時の流行りだったのか? 因みにYMO3人が逆さまに写っているのは、当時YMOの匿名性が薄れてきてマスコミの晒し者になってしまったという皮肉を込めています。タイトル名も同様の意。余談ですが、細野氏は当時、いかにライブをしないでアルバムを売ろうか真剣に考えていたそうです。(笑)